Lee-Sarah Special Bigband
メンバーと O B が語るリーサラ・スペシャルの20年 (1985-2005)

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(バンド結成20周年記念コンサートのパンフレットより + 増補)

◆ 第1回練習 – 曙橋の音楽スタジオ・ディグにて(1985年1月)
1985年1月に初めてメンバーが集まって練習を行ったときから Lee-Sarah Special は活動を開始しました。初代コンサート・マスターであったハッサン立谷 (as) は、当時を振り返ってこのように語っています。
「私って、コンマスやりましたっけ? そういえばそんなことした記憶が残っています。練習方法で、アンドレ宮澤さん (tp) から怒られた、という覚えもあります。きっと、ろくなことをしてなかったのだと・・・思い出すと、恐縮します。サドメルの “MEAN WHAT YOU SAY” が、やりたかったのですが、自分自身がイメージしていたとおりに吹けなかったので、凹んだことも思い出しました。」
とにかく多忙で練習になかなか参加できないハッサン立谷の代理をしているうちにいつの間にか「コンマス」とかいうことになっていたのが、2代目コンマスのスポック平田 (as) 。バンド結成当初このバンドはハイライトJr. とか様々な名前でよばれていましたが、その年の夏の合宿でリーサラ・スペシャルという名前とメンバーのステージ・ネームを決定し、翌年の1月に歴史的な最初のライブを渋谷で行いました。

◆ 合宿 – 苗場・ブルーリッジ (1985年夏)
ラムジー鈴木 (ds) により、バンド名が「リーサラ・スペシャル・ビッグバンド」とされました。この合宿中に早くも、メンバーに「バンド・ネーム」を付けるという流儀が定着。最初は、各メンバーの名前を記した紙を用意、別の紙にバンド・ネームを書いて順不同に並べ、両者を組み合わせるという方法でした。その後はエスカレートして、部外者からは(当人までも)意味の不明なバンド・ネームが居並ぶという結果になりました。そしてバンド名なのですが、初期の一時期、「ザ・バンドライン」と改名しましたが結局定着せず、「リーサラ・スペシャル」に戻ってしまいました。

◆ 第1回リサイタル – 渋谷 Boss にて(1986年3月)
バンド創立の中心メンバーであり、第4回リサイタル(1990年)まで5年間コンサート・マスターを務めたスポック平田は当時の苦労をこのように語ります。
「各メンバーのバンドに対する価値観というのは全くばらばらで、練習に人が集まらず、最少の場合には6人程度ということすらありました。ただそれでも、なお続けることができたのは、先輩格にあたる「Hi-Light Allstars」といった目標・お手本があったことが大きいと思っています。コンマスとしては、(1)譜面管理、(2)最低でも年1回は人前で演奏、(3)単なる演奏だけでない要素を取り入れるといったことを心がけていました。」

◆ 第4回リサイタル – 新宿セントラルパークにて(1990年12月)
早稲田祭やメンバーや知人の結婚式などのライブ活動を続けて行ったあと、スポック平田のコンマス最後となった1990年の第4回リサイタルは、前回リサイタルでの準備不足の反省を踏まえて、9月にはすべての曲を決定し、万全の体制で臨みました。構成は3部構成、第二部に “リーサラ小劇場” を挟み込み、物語に合わせてセクションごとに曲をアレンジ・演奏。曲の中に、クイズのヒントを仕込むというゲーム王ゴンザレス福津 (ts) の企画力が全面的に発揮されたものでした。唄って踊れるフランク小沢 (tp) の傘さしパフォーマンスなど、演奏、ステージ共に、当時のリーサラとしては出色の出来映えだったと思われます。

◆ モンタレー・ジャズ・フェスティバル in 和倉 – 石川県・和倉温泉にて(1991年8月)
第3代コンサート・マスターはバンド創立当初メンバーのパトリシア鶴島 (tb)。彼がコンサート・マスターとなって最初のビッグ・イベントが “モンタレー・ジャズ・フェスティバル in 和倉” でした。全国各地から集まったビッグ・バンドのコンテスト形式で、優勝すれば賞金100万円とアメリカでのモンタレー・ジャズ・フェスティバルの出演権を獲得できるというものでした。賞金に眼がくらんでエントリーしたものの、夜行列車でクタクタの演奏で結果は惨敗。邪まな気持ちがあったからと今更ながら反省しています。

◆ ドラッグ中山の結婚式2次会ライブ – 青山ダイヤモンド・ホールにて(1993年4月)
このころからメンバーの結婚、出産、転勤などがあり、バンド・メンバーがいろいろと替わっていきます。このあたりをパトリシア鶴島はこう語っています。
「とにかくメンバーがいなくなるとその都度、(慶應)ライトや(早稲田)ハイソの若手を引き入れバンドを盛り上げてはいました。しかし、結局また結婚・出産・転勤等繰り返しで入れ替わりの激しい時期でしたね~。ただ結婚式や二次会パーティーでの演奏機会は多く、なんだかんだ 忙しい時期でもありました。定番になったリーサラ名物、”Someday My Prince Will Come” のキャンドル・サービス・バージョンは思い出深いなー。ソロ回しで時間調整し最後のテーブルに近いところでコンマスがキューをだして、うまくいけばメインの蝋燭に火がともったところでフィナーレのジャーン!うまくいくかどうかはすべてコンマスにかかっています。特にドラッグ中山 (tp) のキャンドル・サービスは完璧だったと未だに語り草。こういうのもコンマス冥利につきるというものです。」

◆ 第6回リサイタル – 六本木ピットインにて(1993年12月)
バンド活動の苦労というのにもうひとつ、譜面の調達があります。今のようにインターネットはないし、Dカップリオ岩崎 (tp) のような譜面収集家も当時のメンバーにはいませんでした。結局学生時代にやった曲やヤマハで買ってきた譜面で演奏していましたので、ボツでお蔵入りになった曲も多かったはずです。このときパトリシア鶴島コンマス3年目にして Challenging 的な曲をやろうということで取り組んだのが “Sambandrea Swing”。チャーリー高岡のドラムにはピッタリで、社会人バンドではリーサラしかできない曲ということで挑戦しました。テーマやテュッティはチャー加藤 (p) のシンセも大活躍し、全員参加の一大プロジェクトでした。今はなき六本木ピットインでの第6回リサイタルはこの曲などで完成度の高いライブとなりました。

◆ モンタレー・ジャズ・フェスティバル – アメリカ・カリフォルニアにて(1996年9月)
1994年に、トロンボーンの重鎮サイクロン小池が脱退。トランペットもジョージ葛西やサルーサ窪田など強力なメンバーが抜けるなど、仕事都合や結婚やらとメンバーが減少、リーサラ冬の時代となって、傷心のパトリシア鶴島はコンマス引退。ここで徳島転勤から戻ってきたプッチーニ川島 (tb) が第4代コンサートマスターに就任しました。徳島のバンドで音楽活動に目覚めた彼はリーサラ復活をかけて、1996年9月に USA ツアーを実現。モンタレー・ジャズ・フェスティバルのガーデン・ステージでは、クラリネットの北村英治氏との共演も実現し、500人以上の観衆からスタンディング・オベーションを受けました。

◆ 浅草ジャズ・コンテスト = 6位入賞(1996年12月)
◆ 浅草ジャズ・コンテスト = 金賞、2位(1997年12月)
◆ 吉祥寺ジャズ・コンテスト = 準優勝(1998年5月)
USA ツアーから戻った年には、浅草ジャズ・コンテストのバンド部門6位入賞。アメリカでも好評だった “Don’t Get Around Much Anymore” は、審査員だった原信夫氏に大絶賛されました。その勢いのまま、翌年の浅草で “Mama Lama Samba” を演奏して2位獲得。その翌年、吉祥寺では今やプロとしての活動もするソリスト島 (tp) を擁して2位、多くの賞品・賞金を獲得しました。コンテストについてプッチーニ川島は語ります。
「我々は学生時代にコンテストをひとつの目標としてきたのですが、またあの感じを味わいたいなあと。あの緊張感がたまらないんですよ。コンテストはとにかく自信のある1曲で勝負。でも浅草で金賞になったときのママラマは最後で間違えて飛び出したやつがいたりして、自分たちは失笑したまま審査員の評価を聞いていましたね。」

◆ モントルー・ジャズ・フェスティバル – スイス・モントルーにて(1999年7月)
演奏活動で充実していたこのころ、リーサラのメンバーは2度目の海外遠征を考え始めました。学生時代にアメリカ、インド、オーストラリアなどでの演奏を経験しているメンバーがいることもあり、次に行くのはより魅力的な演奏会場を求めていました。そこでチャンスがめぐってきたのがスイス・モントルーでした。世界的に有名なこのジャズ・フェスティバルは出演するプロも超一流、観光地としても素晴らしいということで夢のようなスイスツアーが実現しました。この演奏旅行で同行した富山のフィールド・ハラー・ジャズ・オーケストラに参加していたバッキー北川 (g) は、ツアー後にリーサラ・スペシャルのメンバーに参画することになりました。スイスで初めてリーサラを見た彼は当時を振り返ってこう語ります。
「リーサラのメンバーが集結したのを初めて見たのは成田空港ですが、機内でメンバー全員が何かに必死に記入しているのを見て、『帰国後にツアー・レポートでも作るのか?う~ん、早慶卒業生はやる事が違う』と思いました(これはスイス・ツアーを題材とした推理ゲームをやっていたのです)。リーサラの演奏を見ると『ウマい』と。特に、ドラム(チャーリー高岡)がウマいと思いました。ただ、リーサラはウマいが、何だかあっさりしていて、MC の仕方も加えて見てみると、学生バンドの延長のようだとも思いました。」

◆ 倶知安ジャズ・フェスティバル – 北海道・倶知安町にて(2000年7月、2001年7月)
◆ 旭ジャズまつり – 横浜市・旭区大池公園にて(2000年7月、2001年7月、2002年7月、2005年7月)
約5年コンマスを務めたプッチーニ川島から2001年に引き継いだのが、第5代となるミスティ杉岡 (tp) です。彼は学生時代のブラスバンド経験を活かし、バンド演奏の基礎技術のレベル・アップを目指しました。特にリズム・キープを重視していた彼はメトロノームでの練習を繰り返し、音程の問題などについて、当時を振り返ってこう語ります。
「音程については、徹底してデジタル・チューナを使用、うるさく指示することをこころがけました。パート縦線(異なる管楽器で同じ番号のパート)の問題は、本人の集中力の問題なので、できなければドンカマ(ドラムのみでメトロノームのような伴奏)でゆっくりやらせる、できないなら一人ずつやらせて、本人の問題意識をもたせるしかなかったですね。それでも、みなしぶしぶですがやってくれたおかげで、全体の能力はみるみる向上しました。」
この練習成果を最初に発揮したのが2001年の旭ジャズまつり、倶知安ジャズ・フェスティバル、そして12月のリサイタルでした。この3つのライブについてもミスティ杉岡は振り返っていいます。
「基礎練習重視と練習最初のブルースソロ回しで、多少は皆さんの実力の底上げにはなったのではないかと自負しております。そんなこんなで、皆さんの意識が上がったおかけで、2001年夏の旭、倶知安、リサイタルの出来は結構良かったのではないかと思っています。特に旭は、Sambandrea Swing 、Randi 、Southern California Samba から Just Friends という選曲で流れるように進行し、プロのコンサートみたいで結構好きです。全体の曲のバランスもよかったな~。」

◆ 浅草ジャズ・コンテスト = 酷評・惨敗(2004年3月)
2004年から第6代コンサート・マスターに就任したのがトシコアキヨシポテ中村 (tp) 。最初のライブは、浅草ジャズ・コンテスト本選でした。このとき演奏した “Three Views Of A Secret” は最高の出来であり(本番直前にスタジオに入って念には念を入れて演奏の細かいところの隅々までチェック)、パトリシア鶴島のピアニカはリーサラの看板となりました。にも関わらず、審査担当の某先生による酷評。ジャコ・パストリアスの名曲に対して「3拍子など変な曲はやめろ」とか「ジャズなんだからエレキ・ベースは使うな※」というコメントをいただき、惨敗でした。
※ “Three Views Of A Secret” は、エレキ・ベースの神様であるジャコの作品なのに・・・。2005年11月に、この時の演奏(フレットレス・ベースはノビ高草木)を聴いた本多俊之様からは、「本物のジャコ・パストリアスの演奏かと思った!」と賞賛されました。

◆ 浅草ジャズ・コンテスト = 金賞(2005年3月)
2004年の惨敗の雪辱を果たそうと再びコンテストに挑戦、”High Maintenance” を演奏しリベンジ(しかも同じくエレキ・ベース)を果たし、見事金賞(2位)を受賞しています。2004年にスタジオに入っていた時間と同じ時間帯には昼食大会と散歩、浅草気分を満喫、本番前に熟睡するメンバーが出るなど超リラックス、何が幸いするか分かりません(??)。

◆ 再び、モンタレー・ジャズ・フェスティバル – アメリカ・カリフォルニアにて(2004年9月)
2度目のアメリカツアーとなった2004年は、モンタレー・ジャズ・フェスティバル出演のほか、オークランドにある世界的に有名なジャズのライブ・ハウスである “Yoshi’s” に出演。名トランペッターの Bobby Shew との共演も実現しました。また、このときにはゴンザレス福津※がツアー・コンダクターとして大活躍しました。彼は当時を振り返ってこう語っています。
「諸事情により、私がツアコン的なことをしてメンバーを連れまわす役割となったのですが、今考えるとよく何事もなく帰ってこれたと思います。今、冷静に思い起こしてみると、このツアーで冷や汗ものだったポイントは、まずアメリカに着いた日に Yoshi’s での演奏があったこと。万が一、天候が悪かったりして飛行機が遅れたらメンバーは Yoshi’s に着くことができませんでした。しかも、わがままなメンバーが多く便がバラバラ、よく全員無事に揃ったものです。また、車に分乗して観光したこと。予算の関係で、バスなどをチャーターすることなく、ミニバンを4台借りて分乗してサンフランシスコの市内などを回りましたが、当然4台が連なって走ることなどできず、バラバラになりました。迷子になることもなく観光することができたのは携帯電話のおかげでしょうか。そしてドナリー御供 (ds) の交通事故。モンタレーの街での自由行動時間中になんと、自動車をぶつけてしまったということ。幸い人身などではなかったですが、前輪のタイヤがパンク。ここで登場したのが、アメリカ在住のハイソ OB 、頼りになる男・間瀬 (tp) 。タイヤの交換から、車の交換の交渉までやってくれました。また、現地で合流し、ベースのトラとしての演奏・通訳・機材調達と、ひとり何役も完璧にこなしてくれた、ライトOB の岡田 (b) 。彼がいなかったらどうなっていたか・・・。」
※ ゴンザレス福津は、メンバーが驚くほどサンフランシスコやモンタレー周辺の地理に精通している。